7/13 (日) 23:59
キンキンにひえてやがる!
2025年に入ってから、一度も酒を飲んでいない。 私が、断酒を始めたのは、時間とお金の節約のためだ。 決して、アル中だから、酒をやめたわけではない笑 生まれて初めて、ビールがうまいと思ったのは、 ブラック企業で働き始めた頃だ。 魔の18時間労働をこなした後のビールは身に染みる。 …キンキンに冷えてやがる!!! 人間は、ストレスを感じると、苦味を欲するようになるらしい。 カイジがうまそうにビールを飲むのも、 帝愛地下帝国でのタコ部屋労働で、消耗していたからだろう笑 しかし、今の労働環境は、クリーンだ。 将来のために、勉強したいと思い、 現在は、週20時間のパート労働と、 週10時間程度の在宅ワークを兼業している。 …ちょっとしたセミリタイア感覚だな。 そのため、収入は下がったが、 私生活が充実して、ストレスが減少した。 数年前までの私は、バブル期の企業戦士のように、 働いてお金を稼ぐことが正義だと盲信していた。 別に、欲しいものがあったわけでもない。 お金を稼ぐことで、自由を手に入れられると信じていたから、 使う当てもないのに、あくせく働いていた。 貧しい家庭で育った私は、お金がないことに、コンプレックスを感じていた。 社畜になったおかげで、収入は、同年代の倍近くあったが、 仕事に忙殺されていたので、終業後のビールくらいしか、使うあてがない笑 人間とは不思議なもので、帝愛地下帝国のような過酷な労働環境でも、 わずかな娯楽があれば、耐え忍ぶことができる。 ゆえに、過酷な労働環境下での娯楽の価値は、高騰する。 カイジの月給は、91000ペリカ。 1ペリカは0.1円だから、日本円に直すと9100円だ。 彼らが購入するビールは高額てら 350ml缶のビールは、5000ペリカ(500円)。 シャバの世界では、コンビニで、350ml缶のヱビスビールを買っても、 300円でお釣りが返ってくる。 もしも、帝愛地下帝国で提供されているビールが、 麦芽50%未満の発泡酒なら、 暴動を起こすかもしれないな笑 月収9100円の世界で、一本500円のビールは高すぎる。 それでも、労働者たちは、5000ペリカのビールが辞められない笑 お金のためにと、社畜にまで成り下がったが、 難病で、生活保護を受けてから、価値観が変わった。 生活保護の支給額は、月12万円程度で、 最賃労働者でも、月100時間=週25時間の労働で稼げる額だ。 世間的には、貧しい部類に入るだろう。 しかし、その頃の私は、お金がなくとも、 心まで貧しいと感じたことはなかった。 子どもの頃に、貧しさを感じていたのは、 自分が幸せになれない理由を、お金のせいにしていたからだと思う。 新型のiPhoneを持っている同級生と、 スマホすら持たせてもらえない自分を比べて、勝手に卑屈な気持ちになっていた。 しかし、私が幸せになれないのは、お金のせいではない。 子どもであるが故の不自由さに、うんざりしていただけ。 子どもは、養育者に生殺与奪の権利を握られているから、 何一つ、自分で決められない。 卒業後の進路にせよ、バイト先にせよ、親の同意が必要だ。 私は、お金がないことに不満を感じていたのではなく、 自分1人で、何も決められない不自由さに不満を感じていた。 今の私は、働く場所も、住む場所も、なんでも自分で決められる。 その気になれば、親の同意がなくても、 子どもの頃からの夢だった大学進学を果たすことも可能だ。 もちろん、貧困コンプレックスが、働く意欲につながったことも事実だし、 ブラック企業で働いたことで、社会人として最低限必要なマナーを学べた。 しかし、月12万円でも幸せを感じられることに気がついた時、 無理して働くことだけが正義であるとは思えなくなった。 あれほど欲しかった新型iPhoneも、 働く大変さを知った今では、そこまでの魅力を感じない。 iPhoneとしての基本要件を満たしていれば、 それでいいと思っているので、 廉価版のiPhone SEを、サポート終了まで使い続けている。 ホームボタンがないiPhoneを持っている人を見つけても、劣等感は感じない。 それが必ずしも、私の幸福度に貢献するものではないということに気づいたからだ。 神戸大学の研究では、最も幸福度に貢献する要素は、所得や学歴ではなく、 自己決定にあると結論づけている。 例え、貧しくとも、それが自分の意思で決断した結果であれば、甘んじて受け入れられる。 逆に、どれだけお金を持っていても、 やりたいことが何一つできない人生は、つまらないだろう。 幸せになるために必要なのは、大金を稼ぐことではない。 自分の意思で決定し、その決断に責任を持つ覚悟であると私は思う。 今となっては、自分を育ててくれたブラック企業にも感謝はしているが、 その働き方は、若いからこそ成せるもの。 この先、何十年も、ブラック企業で働き続けることはできない。 ビールがうまいのは、幸せなことだが、 逆にいえば、ビールがうまいと感じるのは、 相応のストレスを感じている証だ。 もちろん、今でも必要があれば、自分を追い込むことはある。 しかし、それはお金のためというよりも、 信頼して頼ってくれる取引先に対する義理人情によるものだ。 がむしゃらに働いて、浴びるように酒を飲む生活も幸せだったが、 中長期的に考えると、あまりいいライフスタイルであるとはいえない。 今は、ビールをがぶ飲みするよりも、 1人で、オーセンティックバーに行って、 絶滅危惧種と化した国産ウイスキーをちびちび飲みたい。 寿司屋で飲む繊細な日本酒もいいな。
7/12 (土) 20:52
独身税というワードについて思うこと
2026年から子育て支援金という名目で、社保の負担が増えることが確定した。 ネットでは、独身税と揶揄されているが、 私は「独身税」という言葉に違和感を感じている。 子育て支援金を支払うのは、独身者ではなく、 保険料を納める国民=健康保険に加入しているすべての国民だ。 日本は国民皆保険なので、すべての国民に、 支払う義務が発生する。 負担額は、年収500万円なら、月500円程度。 これは、独身に課される罰金というよりも、 勤労世帯に対する事実上の増税であると考えられる。 ゆえに、独身税という表現には違和感を覚える。 独身税という言葉が一人歩きしていて、 その中身を正しく理解している人は少ない。 良くも悪くも「独身税」というキャッチーな言葉はバズる。 ゆえに、バズらせることで、利益を得られる人が勝手に作った言葉だと私は考えている。 私は、子育て支援金制度自体を批判するつもりはない。 国は、少子化がヤバいと言って、若い女性に子どもを産ませようと必死になっているが、 若い女性代表として言わせてもらうと、 今の時代の子育ては、無理ゲーだと思う。 20代の平均年収は、300万円強。 年収300万円なら、月の手取り額は、20万円くらいになる。 夫婦共働きなら、世帯年収600万になるが、 女性が出産すると、一時的に収入が落ちる。 産休・育休が認められる会社なら、 社会保険から、ある程度の給与補償は受けられるが、 産休・育休を取るのは簡単じゃない。 仮に、育休から復帰したとしても、 フルタイムで働きながらの子育ては、しんどい。 朝起きたら、子どもを送る準備をして、 仕事を終えたら、子どもを迎えにいく。 帰宅したら、夕食や入浴の世話に追われ、 残った家事を片付けていたら、 すでに、寝なければならない時間になっている。 自分の時間なんて、皆無に等しい。 子どもが熱を出すたびに、早退していたら、 会社に居づらくなることも想定される。 良くも悪くも、保育園は、病原菌の巣窟だ。 誰か1人が風邪を引いたら、風邪のうつしあいが始まる。 かと言って、退職したら、年収300万強の夫の収入だけでやりくりするか、 扶養控除内のバイトでもして、年収400万程度の収入で、生活せざるを得なくなる。 女性にとって何よりも恐ろしいのは、シングルマザーになるリスクだ。 シングルマザーの生活は厳しい。 シングルマザーの半分は、相対的貧困層=生活保護と紙一重の年収だ。 高給取りの専門職でもない限り、生活保護を受給した方が、楽な生活を送れる。 ぶっちゃけ、最低限の生活をさせるだけなら、 生活保護でもいいだろう。 しかし、生活保護では、満足に子どものやりたいことをさせてあげることは難しいだろう。 私は、飯を食わせるだけの親にはなりたくない。 子どもが野球をやりたいと言い出したら、 少年野球くらいはさせてやりたいし、 子どもが大学に行きたいと言ったら、 奨学金なしで、国公立に行けるくらいの学費は出してやりたいと思う。 旦那から養育費をもらうのも、現実的ではない。 まともに養育費を払っている父親は、4人に1人だ。 旦那の給与から取り立てるにしても、コストと労力がかかりすぎる。 最悪、法テラスを使えば、安価もしくは無料で取り立てもできるが、 それは相手が会社員で、安定した収入がある場合に限る。 父親が自営業だった場合、養育費を支払わないために、わざと売上を小さく見積もって、 養育費から逃げようとするケースもある。 最近は、デキ婚も認められつつあり、 身重の女性が、ウェディングドレスを着るケースも少なくはないが、 子どもの福祉を考えると、決して合理的な選択肢であるとは言えない。 仮に、結婚していない男性との子どもを妊娠したとしても、 相手が責任を負うような男であるとは限らない。 デキ婚して、ハッピーになったという人もいるが、 それは、たまたま相手の男が責任を取ったからであって、 相手が無責任or責任能力に欠ける場合、母親と子供が苦労することになる。 子どもの幸せを1番に考えるなら、男を信用しないのが最善策だとさえ思う。 これらの負担を考えると、勤労者に1人500円の負担を強いるのも、致し方ないと思う。 問題なのは、その子育て支援金が、 本当に子どものために使われているかどうかだ。 最近は、国が子育て世帯を応援するような政策を考えているが、 子育て世帯を取り巻く環境は、楽になるどころか、しんどくなっている。 独身税というバズワードは、怠慢な政府にとって都合がいい言葉だ。 悪いのは、まともな政策を考えられない政府なのに、 独身税という言葉がバズることによって、 子持ち世帯と独身者の対立構造ができて、 お互いがお互いを叩き合ってくれる。 本当に叩くべきなのは、ライブイベントによって、自分と異なる人生を歩む人ではなく、 まともな仕事をしない政治屋だ。 独身税という言葉に惑わされてはいけない。
7/10 (木) 17:15
体力バカも才能のうち
何事も気合いで乗り切ってきた私は、 体力も努力で身につくものだと思っていた。 実際に、私は、バレーボールや格闘技などのスポーツをやってきたが、 運動能力の限界は感じても、体力の限界は感じたことがなかった。 血液の難病で、ヘモグロビン値が7.5g/dLになった時でさえも、 バスケの試合に耐えられる程度の体力は残っていた。 ヘモグロビンとは、貧血の度合いを示す値だ。 貧血になると、体に酸素が行き渡らなくなり、息切れしやすくなったり、疲れやすくなったりする。 正常値は、12g〜15g/dL程度(女性の場合)で、 7g/dL未満になると、輸血が推奨される。 つまり、この頃の私は、輸血を考慮する一歩手前の数字であったにも関わらず、 バスケの試合で、40分間も、走り回っていたのである。 なんとなく、疲れやすいとは思っていたが、 それは、運動不足で体力が落ちているだけだろうと思っていた。 まぁ、バスケで40分間、走り回っている時点で、 体力はある方なんだろうけど… 逆にいえば、健康時の私の体力が、 常人以上だったということなのだろう。 ヘモグロビン値が下がって、常人並みの体力に戻っただけの話だ。 良くも悪くも、私は、体力バカだから、 末期になるまで、病気に気がつけない。 実際に、血液の難病が発覚したのは、 本格的にヤバいと言われてからのことだ。 しかし、その病気でさえも、気合いで治してしまう。 治療開始から、9ヶ月後には、仕事と学校を両立できる状態まで回復し、 今のところ、再発の兆候もない。 完全回復した今では、Apple Watchも認めるほど、心肺機能が高く、 ストレスのある環境に置かれても、へこたれることはない。 何事も気合いで乗り切ってきた私は、 体力も、気合いで身につくものだと思っていた。 私の人生で、努力が報われなかった経験は少ない。 良くも悪くも、私は器用だから、 努力さえすれば、なんでもできた。 それも、体力ゆえのものだろう。 何時間も、同じことを続けて、 集中力が途切れない人は、なかなかいない。 …その代わりに、何時間も集中した後は、 長時間の睡眠が必要になるのだが笑。 大人になってから、体力も才能の一つだと感じるようになった。 世の中には、どう頑張っても、体力が向上しない人がいる。 夜間高校の同級生には、そのような子が多かったように思う。 私は、そのような子たちに対して、 「日々の鍛錬が足りないからだ」と思っていた。 しかし、体力がない子の中には、努力して、 体力をつけようとする者もいる。 私の理屈で言えば、努力した子は、みんな体力がつくはず。 しかし、どれだけ努力しても、私の体力を上回る子はいなかった。 そこで私は、気がつく。 体力も、才能のうちの一つなのかもしれない。 今までの私は、体力がない人を、 心のどこかで「甘えだ」と思っていたが、 そう考えるのは辞めた。 それでも弱い奴、必ずいるもんだ♫ 守ってあげましょう♪ それが強さなんだ♪ 強い奴が弱い奴を守る。 小学生の時に、感じていた当たり前も、 大人になれば、そんなことでさえも、忘れてしまうらしい。 私は、有り余る体力を使って、 私を必要としてくれる人のために働く地獄せんせーみたいな人になりたい。
7/8 (火) 5:06
児童文学から考える投票行動の意味
参院選の投票用紙が届いていた。 歳になってから、選挙権を放棄した事はない。 今のところ、選挙に関しては皆勤賞だ。 私が選挙に行くのは「私も黙ってないぞ」という意思表示のため。 基本的に、政治家は、票や献金が期待できる人の言うことを聞く。 例えば、自民党は、経済界から、 たんまりと政治献金をもらっているから、 経営者にとって、都合の良い政策を考える。 公明党なら創○学会、共産党なら全労連。 既存政党が持つ組織票は、盤石だった。 私は在宅ヘルパーとして、創○学会員のお宅に通っていたが、 創○学会員の情熱は凄まじい。 選挙前になると、聖教新聞を渡され、 「創○学会と公明党はすごい」などと言って、 熱心な布教活動をしてくる。 彼らの自宅には、その選挙区の公明党候補者の写真が飾られていた。 その候補者は、見た目が爽やかすぎて、いけすかない笑 私は、見た目がいい政治家に対して、懐疑的だ。 顔がいいという理由だけで、支持される危険性がある。 宗教も同じだ。 その宗教の信者であるというだけで、 教祖様が推奨する立候補者を盲信する。 日本国憲法では、政教分離と言って、 政治と宗教は一緒にしてはならないという原則がある。 ゆえに、私は、公明党が学会との関係を断ち切らない限り、公明党を推すことはないだろう。 しかし、盤石だったはずの既存政党も、勢力を失いつつある。 特に、公明党推しの創○学会は、高齢化によって、 選挙活動に費やせる学会員が減っている。 名誉会長の訃報も、弱体化に拍車をかけているだろう。 逆に、支持を集めているのは、ネット戦略に強い新興政党だ。 れいわ新選組や参政党は、巧みなネット戦略によって、若者の支持を増やし、 オールドメディアも無視できない存在になっている。 今までの日本は、父親が働けば、母親が働かなくても、 それなりの生活が送れていた。 しかし、この30年で、国民の生活は壊れていった。 物価は上がっているのに、社会保険料や税金で、自分1人を養うことで精一杯。 ついには、平和ボケした日本人が、 財務省解体デモを始める。 オールドメディアは、ほとんど報道しないが、 去年の12月から始まり、現在も続いている。 基本的に、庶民が、政治に文句を言うのは、 自分の生活が、しんどい時だ。 フランス革命にせよ、江戸時代の百姓一揆にせよ、 飢饉や重税によって、食うにも困る人が増えたから、革命や一揆を起こした。 衣食足りて礼節を知るという言葉があるが、 まさにその通りである。 基本的な衣食のニーズも満たせない人間は、 革命を起こしても、起こさなくても、 ご飯が食べられなくて、死んでしまう。 どうせ餓死するんだったら、処刑される覚悟で、革命を起こしたい。 市民革命によって、権利を得たが、 王族が資本階級に変わっただけで、 強者が弱者を支配する構造は変わらない。 特に、現代の日本は、資本階級である株主への分配率が多く、 労働階級への分配率は著しく低い。 そこに社会保険料と重税がのしかかり、 若い世代は、自分を食わせるのに必死だ。 子どもを持つ余裕はない。 今までの日本は、政治に文句を言わなくても、 それなりに豊かな生活が送れていたから、 政治に無関心だった。 ある意味、国民が政治に無関心な状態が、最も幸せな状態であると思う。 確か、中国の漢文でも、そんな文章があったような… 憂国の政治家は、国民に困っていることを聞いて回ったが、みな口を揃えて「何もない」という。 彼が最後に尋ねたのは、町外れの男。 彼は、今の生活に満足しているから、政治に無関心だと言った。 そんな庶民の姿を見て、政治家は安心した。 政治に対する関心は、国民の生活レベルと反比例する。 私は、自民党が、政権を握り続けていることに疑問を感じていたので、 あえて自民党以外の少数政党を選び続けてきた。 権力とは、分散されるべきものであると考えられている。 1人の人間が強い権力を持つと、独裁政権になってしまう。 18世紀の思想家であるモンテスキューは、 「法の精神」で、三権分立を説いた。 現代の日本でも、行政・司法・立法の3つに分けて、 それぞれが独立して、権力を監視し合うことで、民主主義を機能させている(はず)。 私は、政治の世界でも、権力は分散させるべきだと考えている。 自公が与党であり続けたことで、 国会は、与党の独裁政権になっていて、 野党が文句を言っても、何も変わらない。 盲目的に、与党を推している人は、 「ろくな野党がない」というが、当たり前の話だ。 国会は多数決で決まるので、 与党が過半数超えしている時点で、 負け確のゲームに参加させられているようなもの。 野党に仕事をして欲しければ、野党に票を与えるしかない。 数年前までは、少数派の政党に投票しても、 どうせ自民党なのだろうと諦めモードで投票所に行っていた。 しかし、前回の衆院選あたりから、風向きが変わり始めている。 衆院選では、自公が過半数割れ。 東京都議選では、自民が過去最低議席を記録し、 都ファ、国民民主、参政党が躍進した。 自民党は、都議選で大敗したことから、諦めモードになっていて、 野党との連立を検討しているようだ。 小学校1年生の教科書に、スイミーという作品がある。 小さな魚が、群れを作って、大きな魚のように見せることで、 大きい魚の脅威から身を守るという話だ。 国民の大多数は、お金も権力も持たない小さな魚だ。 小さな魚が、1匹で泳いでいると、大きな魚に食べられてしまうが、 小さな魚も、一つになれば、大きな魚よりも大きくなれるだろう。 ましてや、選挙は数の勝負だ。 小さい魚が力を合わせれば、大きな魚を打ち負かすことができる。 大きな魚の養分になりたくなければ、選挙に行くことだな。
7/5 (土) 17:03
関西人の「行けたら行く」は99%行かない説
「行けたら行く」は、非常に便利な言葉だと思う。 本当は行きたくないけど、行かないって言ったら、角が立つから、曖昧な言葉で濁す。 私も、気乗りしない集まりは「行けたら行く」で濁すことが多い。 そして「行けたら行く」と回答した集まりには、99.9%の確率で、参加しない笑 これは、関西人あるあるらしい。 どちらかと言えば、関西というよりも京都の文化だと思う。 京都人は、都合の悪いことを言う時、生八ツ橋の皮で、何重にも包んで、 原型すらも、とどめていないような状態で、言葉を返す習性がある。 しかし、その文化は、京都だけにとどまらない。 大阪や神戸の人間は、生八ツ橋ほど分厚くないが、 オブラートくらいの分厚さで包む癖はある笑 関西人にとって、丁寧語は最上級のディスり構文になり得る。 特に、私の場合は、それが顕著に現れる。 嫌な奴には、最上級の丁寧語で、おもてなしをして、心理的な距離を保とうとする。 英語圏でも、このような文化は存在する。 例えば、窓を開けてくれませんか?は、 Can you open the windows?と訳せるが、 文頭の助動詞「can」を、過去形のcouldに変えることで、より丁寧な表現になる。 英語で、助動詞の過去形は、時間的な距離のみならず、心理的な距離を意味する言葉でもある。 と言うのも、英語の助動詞は、mood=キモチを意味する。 だから、過去形で、キモチの距離を取ると、丁寧語になる。 英語圏でも、丁寧語は、心理的距離を意味する言葉なのだ。 生まれてから、ずっと関西に住んでいる私は、生粋の関西ネイティブだ。 このような文化は、当たり前のものとして育っている。 ゆえに、非関西人と交流するときは、誤解を招くことも多い。 「行けたら行く」という曖昧な返答をしておきながら、 関西人の自分は、断ったものだと思い込んでいる。 ゆえに、非関西圏の人と会話をする時は、 曖昧な表現を避けるようにしている。 「行けたら行く」は、関西人にのみ通じる共通言語であって、 非関西圏の人には通じない。 しかし、関西にいる時は、関西のルールに従ってもらう。 郷には郷に従えというだろう? 例え、日本の公用語が標準語であったとしても、ここは関西だ。 私の中学は、転勤族が過半数を占める特殊な学校で、 神戸の学校なのに、関西人が少数派だった。 ゆえに、よそ者である標準語の民族は、 調子に乗って、関西弁を馬鹿にしていた。 私は、無類の平和主義者だから、関西弁をディスられたくらいで、怒る事はないが、 それにしても、よその連中は、厚かましいと思っていた。 自分の都合で、関西にお邪魔しているのだから、 お邪魔した側は、関西の文化を尊重し、 寄り添う姿勢が大切だと思う。 実際に私が、関西以外の土地に行った時は、 その土地の文化を理解する努力を怠らない。 どちらかといえば、異文化交流は好きな方だ。 私には、非関西圏の日本人のみならず、 外国人の友達もいる。 ゆえに、異文化には慣れっこだ。 関西では関西人らしく、日本では日本人らしく振る舞うが、 それ以外のコミュニティでは、その場所のルールに従う。 もしも私が、アメリカに行って、アメリカのルールに従っても、アメリカ人になる事はできないだろうし、なりたいとも思わない。 しかし、アメリカ人の文化を理解し、尊重する事で、友達になる事はできるだろう。 日本人は、よそ者と友達になるのが得意な民族であるはずだ。 日本には、聖徳太子の時代から「和をもって尊し」というルールが存在した。 海外が、宗教戦争を繰り広げている中、 多神教の日本は、仏教やキリスト教も、 よその国の神様として、受け入れている。 キリスト教を禁止したのは、 海外からの侵略を防ぐためであって、 キリスト教の神を否定していたわけではない。 お互いが違いを理解して、受け入れることができれば、 戦争だって止められるはず。 兵士たちが、武器を捨てて、その手で酒を持てば、宴の始まりだ。 私は、関西人で、日本人だから、関西と日本が大好きだ。 しかし、よその文化を受け入れ、それを謳歌できるだけのキャパシティもある。 関西にくるなら、関西の文化を受け入れるだけのキャパをもって来てほしい。 せやないと「邪魔するなら帰ってぇ」って言うで。